株式会社NHK出版のプレスリリース
編著者は「浮世絵EDO-LIFE」の番組制作班と同番組の浮世絵監修を務める藤澤紫さん(國學院大學教授)。ボストン美術館所蔵『保永堂版 東海道五拾三次』の高精細画像で全55図の細部に肉薄する本書は、画中の人々が、なぜ、その場所で、その身なりで、その表情で、その動きをしているのかを解き明かしていきます。さらに、登場人物たちのこれまで人生や、描かれた場面のその後に起きたかもしれない出来事に想像を膨らませ、13篇の「浮世絵からひろがる物語」を創作しました。
編著者のメンバーを代表して、NHK「浮世絵EDO-LIFE」制作班の長野真一さんが、この本のもとになった番組制作のエピソードをまじえながら、本書の見どころ・読みどころを紹介します。
- しゃべるしゃべる
2015~2016年頃、NHKでは、高精細の4Kを使った番組作りを試み始めていました。まだ本放送が始まる前のことで、局内でも経験値が少なく、1本制作するにも多額のコストと時間がかかっていました。そんなある日、耳寄りな情報が飛び込んできました。NHKグループの中に、世界最高峰の浮世絵コレクションの高精細画像データが眠っているというのです。その数2万点。さっそく見せてもらうと、その質と量にびっくり。ほとんど劣化していない美しい浮世絵の画像が、パソコンから次々と飛び出してきました。
高精細ゆえに、浮世絵の一部分を拡大してもほとんど画像が荒れることなく、着物の細かな柄から髪の毛の1本1本まで、ディテールが詳細に浮かび上がります。そこから見えてきたのは、芸術としての浮世絵ではなく、「人々の暮らしと表情を緻密に描いた記録」としての浮世絵でした。
同じ宿場町の風景でも、笠を被り足に脚絆をつけた旅人、白い装束を身にまとった巡礼の人、客を旅籠に引き込もうとする留女、染物を扱う店で熱心に客の話を聞く旦那、乗客の話に耳を傾けながら棹を操る渡し舟の船頭、大名行列の段取りの打ち合わせをする家臣たち。実にさまざまな職業と年齢の男女が、多彩な表情と動きで描かれています。
彼らは、いったいどんな場面で、何を思い何を話し何をしようとしているのか。浮世絵に描かれた人々の声に耳を傾けてみよう。こうして浮世絵プロジェクトが立ち上がりました。
まず趣味講座番組「趣味どきっ!」で浮世絵に見る人々の暮らしをテーマにシリーズ展開。好評を受けて、新しい番組「浮世絵EDO-LIFE」のシリーズ企画がスタートします。毎回1枚の浮世絵を隅々まで見つめ、秘められたストーリーを画像と語りだけで呼び起こす5分間。ロケなし、顔出しの出演者なし。4Kとしては超低コストの新番組でした。
そして2018年。プロジェクト初の長尺番組「特別版 東海道五十三次」の企画が走り出しました。5分版のフォーマットをいきなり60分の長時間に拡大、浮世絵の画像と語りだけで、日本橋から京まで突っ走ろうという、テレビ番組としては無謀な企画でした。さすがに60分を楽しんでいただくためには、専門家のインタビューや現在の東海道の風景、役者さんたちの再現ドラマなど、多種多様な映像を入れないと飽きられてしまうのではないか、と内心不安に思っていました。
ところが、いざ作り始めると、そんな心配は吹き飛びます。浮世絵の中の「多種多様な」人たちが、しゃべる、しゃべる。動き回り、走り回り、のべつ幕なしにしゃべり続けます。あっという間の60分。90分番組にしても良かった、とさえ思えました。
しかし登場人物たちの中には、せっかく面白く話してくれて、楽しく動き回ってくれたのに、時間の都合でカットされた人たちもいました。話し足りない彼らに、もっと語ってもらわなくては。番組で出番のなかった皆さんにもご登場いただき、その話に耳を傾けなくては。
そこで生まれたのが、本書の企画でした。
- 描かれた人々の素性や暮らしの様子
歌川広重の『保永堂版 東海道五拾三次』。江戸時代の旅の情緒を醸し出す55枚の絵は、日本美術史上に名を残した傑作です。美人画の歌麿、役者絵の写楽、風景画なら広重、という訳です。
広重の『東海道五拾三次』は単に風景を描いただけの絵なのでしょうか。確かに各宿の風景や道中の名所が描かれています。構図、描写、色使い。どれをとっても風景画の名作であることは間違いありません。しかし、それぞれの絵にはもう一つ、見逃してはならない重要な要素があります。風景の中に描かれた「人物たち」です。55枚の絵を一つ一つ見ていくと、人物が描かれていない絵は1枚もありません。一見同じように見える人々は、つぶさに見てみると、それぞれの職業や状況に応じた服装に描き分けられ、表情も動作も暮らしの中のある瞬間が巧みに切り取られていることがよくわかります。
例えば≪鞠子 名物茶店≫の絵を見てみましょう。
Photograph Ⓒ 2021 Museum of Fine Arts, Boston. All rights reserved. William Sturgis Bigelow Collection, 1911 11_41820
「鞠子」の登場人物たちにフォーカスを当てたページ
鞠子(現在の呼称は「丸子」)はとろろ汁が名物の宿。お腹を空かせた客2人が、丼をがっつく様子と、給仕の女性がおそらくはおかわりを運んでくる様子が描かれています。給仕の女性は、赤ん坊を背に負ぶっています。生活感たっぷり。働き者のようです。一方、2人の男性は旅人でしょう。足の脛のところに注目すると、脚絆をつけています。長時間の歩行の時に足の保護などのためにつけるもので、江戸時代では旅人たちの必須アイテムでした。他の絵を見ても、この脚絆を付けていれば旅人、そうでなければ地元の人と、おおよそ見分けられます。
さらに店内を詳しく見ると、軒には干し柿がつるされ、奥の座敷には藁筒に青魚が刺してあります。看板には「名ぶつとろろ汁」「お茶漬け」「酒・さかな」などと書かれています。この店のメニューがおよそわかります。
店先の床几の上には、煙草盆と猪口が置きっぱなしに。おそらく今しがたまでここに客が座っていたのでしょう。店の外に目を転じてみると、緩やかな坂道を上るように店を去っていく男が1人。この人物は脚絆をつけていません。長い棒を持っていることから、地元の自然薯掘りだと想定できます。自然薯は、とろろ汁の材料となる山芋の一種。もしかするとこの茶屋に、自然薯を納めにきたついでに、酒を一杯、煙管を一服、楽しんだ後なのかもしれません。腰に下げた巾着を見ると、随分膨らんでいます。きっと高く売れたのでしょう。
事程左様に、「情緒豊かな風景画」とひとことでおしまいにせず、絵のディテールを丹念に読み解いていくと、そこに描かれた人々の素性や暮らしの様子が垣間見えるのです。
「浮世絵EDO-LIFE」は、浮世絵を「芸術品」「美術品」として見るのではなく、描かれた人々のディテールを掘り起こし、江戸時代の暮らしを再現していこうというコンセプトの番組です。そのコンセプトが本書に引き継がれました。
- 浮世絵からひろがる13編の物語
さらに本書では、映像ではなかなか実現できない、活字ならではの表現に挑戦してみました。浮世絵に描かれた人々が、なぜ、今この場所で、この身なりで、この表情で、この動きをしているのか。この瞬間に至るまでのその人物の人生や、この直後に起こる出来事に想像を膨らませ、13篇のオリジナルの物語を仕立てたのです。
例えば≪庄野 白雨≫の絵を見てみましょう。
Photograph Ⓒ 2021 Museum of Fine Arts, Boston. All rights reserved. William S. and John T. Spaulding Collection, 1921 21_5075
突然降り出した雨に人々が右往左往する様子が描かれたこの作品、シリーズ中屈指の名作として知られる1枚です。ここには駕籠舁と傘を差した旅人のほかに、脚絆をつけず筵を纏って坂を駆け上り、駆け下る2人の男がいます。おそらくは地元の農民でしょう。身なりからしてさほど裕福には見えません。ずいぶん慌てた様子です。背景を見ると、竹林を大きく撓らせるほどの強い風と、直線状に降り注ぐ強い雨が描かれています。坂の下には集落が見えます。坂で交差する2人の男は、今何を思って駆けているのか。
そこから物語が動き始めます。
まず強い雨といえば、想起されるのが水害です。日本は世界の中でも川が急流で、水害に苦しめられる歴史を辿ってきました。この庄野宿近辺も例外ではなく、近くを流れる鈴鹿川やその支流は、ひとたび雨が降ると洪水を引き起こし、人々は堤防や治水施設を作って何とか水害から逃れようと必死で闘ってきました。もしかすると、必死で走るこの地元の民は、川や田に仕掛けた水門の様子を見に行くところかもしれない。下に見える集落を守ろうと、一刻を争って走っているのかもしれない。その集落には、おそらく可愛い愛児もいて、父の帰りを待っている。さらに想像を逞しくすれば、この集落は、何年か前にも同じような大雨と洪水に苦しめられたかもしれない。その時に、もし最愛の妻を亡くしていたとしたら……。2度と起こしたくない悲劇。村を、愛児を守るために走る。刻々と強くなっていく雨の中、息も継がずに走る。
そんな風に、絵の中の人物に、家族と人生と過去を与えると、その人物の物語が活き活きと動き出します。以下、本書収載の物語「白雨に駆ける」の一節です。
「庄野」から生まれた物語「白雨に駆ける」の掲載ページの一部
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坂に差し掛かった。これを越えればその先は川と集落だ。虎之助は、雨に立ち向かうように、泥を飛ばしながら駆け上がる。
と、前方から五平がやってきた。鍬を担いでいる。朝の農作業のあと、昼過ぎに虎之助の家に戻り太一郎に煎じ薬を飲ませていたら、雨が降ってきたという。
「田んぼを見てきます。水取り口が開きっぱなしになっていたはずです」
「そうだな。五平、頼む。急いでくれ。わしは川の水門を開いてくる」
「わかりました」
短く言葉を交わすと、全力で駆け下る五平を見送り、虎之助は坂を上り続けた。
街道では、旅人たちが篠突く雨に右往左往している。傘を飛ばされまいと、必死に風に抗う。駕籠舁は、急げ急げと先を急ぐ。雨が横殴りとなり、風が竹林をわさわさと揺らしている。まるで天の神が、怒りに任せて水と風を打ちつけているようだった。
あの時と同じだ。
虎之助の脳裏に悪夢がよみがえってきた。
あの日も、前触れもなく見る見る空が暗くなった。朝の六ツ半。一度二度雷光が煌めいたかと思うと、大粒の雨が降り出した。
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絵に描かれた人の動きと表情。その涙、笑い、動きの奥には、きっと悲喜こもごもの人生物語があったに違いありません。
江戸時代の人たちも私たちと同じ人間です。旅の最中には思わぬハプニングもあったでしょう。上司と部下に挟まれた中間管理職の悲哀もあったでしょう。胸焦がしても成就しない恋の物語だって転がっていたでしょう。そうした今と変わらぬ情感を持ち人生を送った人たちの心の内に想像を膨らませて、一つ一つ物語を紡ぎました。
13篇の「浮世絵からひろがる物語」のあらましは以下のとおりです。
- ●日本橋「鰯と朝顔」 江戸市中で青魚を売り歩く棒手振の銀次と、奉行を務めるという武家の左馬丞との不思議な友情の物語。
●品川「天女の星」 しがない浪人の彦助と、品川の旅籠で七夕の夜に枕を交わした飯盛女のひさ。2人の1年越しの悲しい恋の物語。
●川崎「水しぶき」 六郷川の渡し船を操る無口な源吉。たまたま乗り合わせた身分の異なる6人の客のやりとりが始まると……。
●三島「ほだされ雲助」 口八丁手八丁で客から駕籠賃をぼったくる雲助の弥次郎は、貧乏旅を続ける哀れな母娘からも金をせしめるが……。
●興津「土俵人生」 興津川を渡る2人の力士。1人は駕籠に乗って。もう1人は馬に乗って。2人の間にはどんなドラマがあったのか。
●丸子「梅と、とろろ」 名物茶屋を訪れた2人の旅人が出会った給仕の女性。梅がほころぶ季節に花咲く小さな恋の物語。
●日坂「琥珀色の景色」 峠道の真ん中に置かれている伝説の丸い大きな石。幼子と出会った旅人の、伝説をめぐるほのぼのとした人生物語。
●見附「天竜の呼声」 川に生かされ、川を怖れた渡し舟の船頭たち。川に畏敬の念を抱いた老人が天竜の心に触れる不思議な物語。
●二川「柏餅の香」 母と離れ、巡業の旅を続ける瞽女の少女・ナツ。木賃宿で出会った家出少女のよねとの触れ合いが、ナツの心を動かした。
●鳴海「有松の大波」 今は亡き名人が手掛けた奇跡の反物「有松の大波」。この名品を求めて遠方から次々と客が押し寄せるが……。
●庄野「白雨に駆ける」 突如降り出した大雨の中、必死で走る「水守の虎」こと虎之助。暴れ川を前に、かつての悲劇が頭をよぎる。
●関「本陣は遠し」 参勤交代の行列の仕切りを任された徳之助。関宿を出立する朝、とんでもない情報が飛び込んできて……。
●大津「水飲む牛」 大津から京まで米俵を積んだ牛車を牽く勘助。相棒の黒牛・ごんたとの最後の日に、茶屋の前を通り過ぎようとすると……。
主人公は、天下人でも将軍でも大名でもありません。見栄っ張りで、弱虫で、誰かのささやかなひとことで幸せを感じてしまうような、ごく普通の人たちです。そんな人々の息づかいに触れながら、浮世絵を静止した芸術としてではなく、江戸時代の人物たちの人生の記録として見てみましょう。きっとこれまでと違った浮世絵の世界が広がります。
- 商品情報
書名:NHK浮世絵EDO-LIFE 東海道五拾三次~描かれた人々の「声」を聴く~
出版社:NHK出版
発売日:2021年7月28日
定価:2,420円(税込)
判型:A5判・並製
ページ数:280ページ(カラー136p+モノクロ144p)
ISBN:978-4-14-081862-6
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