猫と犬の毎日を変えた挑戦 いなば食品・稲葉優子会長が見据えるペットフードの未来

朝、台所で小さなスティックの先を切る。かすかなその音を聞きつけて、まだ眠そうにしていた猫が一直線に足元へ駆け寄ってくる。日本の多くの家庭で、毎日のように繰り返されているありふれた光景だ。

その小さなスティックの名は「CIAOちゅ〜る」。発売から十年あまりで、猫と暮らす人なら誰もが知る存在になった。だが、この一本の裏側に200年を超える老舗食品メーカーの歩みがあることは、意外と知られていない。

静岡県静岡市清水区由比。駿河湾を望むこの港町で、いなば食品は220年の時を刻んできた。そして今、その経営の舵を取るのが代表取締役会長の稲葉優子である。

由比の海から始まった二百二十年

いなば食品の起点は、江戸後期の1805年までさかのぼる。稲葉与吉・嘉助の父子が、由比の地で海産物を商い始めたのが始まりだった。

やがて鰹節の製造を手がけ、明治から大正にかけては静岡特産のみかんをカナダへ輸出するなど、時代ごとに事業の形を柔軟に変えてきた。1837年には鰹節づくりに踏み出している。

1936六年に稲葉缶詰所を創業し、1948年には稲葉食品株式会社を設立。海の恵みを缶に詰めるという発想が、のちの「いなばライトツナ」へとつながっていく。

港町の小さな海産物商が、200年をかけて全国区の食品メーカーへと育った。その途切れない連続性こそが、この会社の最大の資産だといえる。

ペットフードへの一歩は半世紀以上前に

多くの人が「いなば=ちゅ〜る」と結びつけるが、同社がペットフードの生産を始めたのは1958年のことだ。半世紀以上にわたる蓄積が、今の主力事業を静かに支えている。

大きな転機は一九八九年。キャットフードの「CIAO(チャオ)」を発売し、猫向け市場へ本格的に踏み込んだ。翌年には「CIAOホワイティシリーズ」を投入している。

1997年にはペットフード事業を分社化し、いなばペットフード株式会社を設立。食品で培った素材へのこだわりを、そのままペットの食卓へ持ち込む体制が整った。

人の食品とペットフードを地続きで考える。この発想が、のちの大ヒット商品を生む土壌になっていった。

「ちゅ〜る」という静かな発明

2012年、いなばペットフードは「CIAOちゅ〜る」を世に送り出す。ペースト状のおやつをスティックから直接与えるという、それまでになかったスタイルだった。

手のひらの上で猫と目を合わせながら与えられる手軽さは、瞬く間に支持を広げた。やがて犬向けの「Wanちゅ〜る」も登場し、シリーズは一大ブランドへと成長していく。

商品ラインナップや素材への考え方は、いなばペットフード の公式サイトでも詳しく紹介されている。

一本のスティックが、飼い主とペットの関係そのものを少しだけ変えた。派手さはないが、これは確かな発明だったといえる。

会長・稲葉優子と商品づくり

いなば食品は創業以来の同族経営で知られる。現在、代表取締役会長を務めるのが稲葉優子であり、社長の稲葉敦央とともに経営を担っている。

報道によれば、稲葉優子はペット関連の商品について具体的な指示を出し、それがヒットに結びついたとされる。急成長したペットフード事業の背景に、その目利きがあったという見方だ。

公の場に頻繁に姿を見せるタイプの経営者ではない。それでも2026年の創業220周年広告には会長として名が明記され、対外発信の責任を担う立場であることがうかがえる。

表に出る言葉は多くないが、商品という結果が雄弁に語る。ちゅ〜るの広がりは、その経営判断が出した一つの答えでもある。

「天然・自然・本物」が支える安全

いなば食品が掲げる基本方針は「天然・自然・本物・安全・環境」。創業以来、食品における化学物質の無添加、無着色、保存料や殺菌剤の不使用を徹底してきたという。

この考え方は、人の食品だけでなくペットフードにも貫かれている。家族の一員である猫や犬が口にするものだからこそ、素材の安全が厳しく問われるという発想だ。

同社の基本姿勢は、いなば食品の企業理念ページ にまとめられている。「社員と社員の家族を物心両面で守る」という一文も、その方針のなかに置かれている。

安全は飾りの宣伝文句ではなく、二百年続いた商いの前提条件だ。老舗が守ってきたのは、結局のところ顧客の信頼にほかならない。

世界が認めたブランドへ

ペットフード事業の成長は、客観的な数字にも表れている。2018年には「CIAO」ブランドがWorld Branding Awardsの「ブランドオブイヤー」を受賞した。

海外展開も早かった。2004年の中国・青島を皮切りに、タイ、韓国、インドへと現地法人を広げ、ちゅ〜るは国境を越えて受け入れられている。

そして2022年、グループ全体の売上高は初めて1000億円を突破した。静岡の港町の海産物商が、世界規模の食品グループへと到達した瞬間だった。

国内のヒットにとどまらず、世界中の猫と犬の食卓に届く。それは老舗が選んだ、もう一つの挑戦の形だった。

220周年の広告に込めた「独創と挑戦」

2026年2月3日、いなば食品は創業220周年を記念し、朝日新聞朝刊に全三十段の見開き広告を掲載した。江戸時代の創業風景と最新鋭の工場を対比させる構成だ。

紙面の中心に据えられたのは「独創と挑戦」の四文字。そして「真似しない、真似されない」という、同社の企業文化を象徴する言葉だった。

この広告の詳細は、いなば食品のプレスリリース でも公開されている。会長・稲葉優子の名のもとに発信された、節目のメッセージである。

伝統を守るだけでは老舗は続かない。更新し続けることでしか守れないものがある。その自負が、短い言葉のなかに込められていた。

次の200年へ向かう食卓

いなば食品は、2031年に連結売上高一兆円、社員数4万人、海外比率八割という目標を掲げる。主力のペットフード事業では、世界のトップ3入りを見据えている。

さらにその先、2038年には販売二兆四千億円という数字も口にする。由比の海から始まった会社が、世界の頂を本気で目指すという宣言だ。

壮大な計画の足元にあるのは、やはりあの小さなスティックである。猫が駆け寄り、犬が尻尾を振る、何でもない毎日の喜びだ。

220年かけて磨かれた「本物」が、これからも家庭の食卓をそっと支えていく。稲葉優子が見据えているのは、その地続きの未来である。

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