株式会社ソニー・ミュージックダイレクトのプレスリリース
単なる回顧ではない。32年前の映像をオーディエンスみんなで楽しく共有しつつ、そこで鳴っているサウンドの強度と創造性を1人ひとりが再発見し、フレッシュな視点で捉え直す試み。8月26日(水)21時からリアルタイムで配信された『ナポレオンフィッシュ・UKレコーディング・ドキュメンタリー』は、リモート環境における新たなアーカイブの活用法を提示する、きわめて意欲的なプログラムだった。
本作は、貴重な映像コンテンツを年末までマンスリーで配信する「佐野元春40周年記念フィルムフェスティバル」の第2弾。1988年に英国ロンドンで行われた名盤『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』のレコーディング模様が、貴重な未発表映像をふんだんに使って生々しく再構成されている。
当時、佐野は33歳。直前にはアルバム『カフェ・ボヘミア』を大ヒットさせ、大規模な全国ツアーはどの会場も大入り満員という状況にあった。だが佐野は、あえてその成功体験を振り切るように単身で渡英。1人でアパートに住み込み、現地の凄腕ミュージシャンたちと体当たりで信頼関係を築きながら、まったく新しいバンドサウンドを創りあげていく。その一部始終を間近で撮影したのは、ロンドン在住の映像作家であるYOSHI TEZUKA氏。被写体の懐に飛び込み、まさに“音楽が生まれる瞬間”を切り取った手腕が素晴らしい。
と同時に重要なのは、冒頭で述べたように、編集の主眼があくまでも現在に置かれていることだろう。多くの視聴者が初めて目にする映像を多数盛り込みつつ、今回新たにプロデュースを務めたコリン・フェアリーのインタビューも敢行。力強い英国のパブロック・サウンドと、現代詩にも通じる佐野の日本語リリックが有機的に融合した本作が、なぜ時代を超えてリアルに響くのかを、楽曲ごとにプロフェッショナル的な視点で詳しく分析していく。
冒頭ではまず、スタジオで「ペギー・スー」のコードをカッティングしながら、「この曲みたいなスネアドラムはどうかな?」とメンバーに話しかける佐野の姿が映し出される。言わずと知れたバディ・ホリーの名曲。ロックンロール・クラシックという“共通言語”によってミュージシャン同士の距離感が一気に縮まる、本作を象徴するオープニングだ。
ギターはブリンズリー・シュウォーツ(ニック・ロウが在籍したパブロック・バンド)やグレアム・パーカー&ザ・ルーモアに在籍したブリンズリー・シュウォーツ。キーボード/オルガンは、その盟友であるボブ・アンドリュース。ドラムスはエルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズのピート・トーマス。ベースはファビュラス・サンダーバーズ(ニック・ロウがプロデュースを手掛けたテキサス出身のブルース・バンド)のキース・ファーガソン。1970年代の英国パブロック・シーンを形作った重要ミュージシャンたちが、ロンドン市内の「Air Studio」に集結している。
自身もエルヴィス・コステロとの仕事で知られるフェアリー氏は、佐野が日本から持参したデモ音源を聴いてすぐに、このメンバーを思い浮かべたそうだ。同時に、デモテープの完成度があまりにも高すぎて、当初「自分は必要ないのでは、と思った」と回想しているのも興味深い。だが、佐野の作る楽曲には、言葉を越えた深みがあった。コステロやニック・ロウのナンバーから伝わってくるのと同じ「永く色褪せないクオリティ」。それを感じとったフェアリー氏は、親しい人脈を駆使し、そこに生のサウンドの力強さとエネルギーを加えようと考える。彼がパブロックについて語った言葉は、『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』の本質を理解するうえできわめて重要だ。
「パブロックと聞くと私が想起するのは、“ポジティブ”という言葉だ。パブに足を踏み入れてそこにご機嫌な音楽が流れていたら、嬉しくて気持ちがノッて、ポジティブな気分になるだろう。そこに“ネガティブ”な要素はないんだ」
この証言を地で行くように、本作で初公開されたレコーディングの空気感はつねに明るい。佐野とバンドメンバーの音楽的なバックグラウンドがぴったり一致していたのも奏功したのだろう。人生の多感な時期に、ロックンロールに魂を奪われた者同士の連帯感が、そこにはたしかに感じとれる。
たとえば「陽気にいこうぜ」のリハーサル風景もそう。佐野は両手を激しくシェイクし、曲の持つフィーリングを全身で伝えようとする。それにビビッドに反応したメンバーが、どんどん独自のグルーヴを獲得していく。こういったプロセスを映像でありありと示してくれるところが、このドキュメンタリーの大きな見どころだ。そこにいるのは、歴戦の強者ミュージシャンばかり。だがフェアリー氏は、「レコーディングが始まってすぐ、モトは英国ミュージシャンたちから多大なリスペクトを受けた。そこにはお金をもらって演奏するという関係性はまったくなく、彼らはモトのためにベストを尽くした」と証言する。佐野が正真正銘の“ホンモノ”であることを、彼らは瞬時に理解した。互いに敬意を払い、仕事だけでなくオフの時間も共有し、バンドとして強い一体感が生まれた。結果、あの強力なサウンドが生まれたのだ、と。
今もこのアルバムが大好きだというフェアリー氏をナビゲーター役に、アルバム収録曲の制作風景が次々に紹介されていく。力強くワイルドな「愛のシステム」。スタンダードな8ビートからレゲエのリズムへと自然に展開する「雨の日のバタフライ」。ブルージーなムードを漂わせた「俺は最低」──。未公開映像を見て個人的に印象的だったのは、スタジオ内にはごく簡易的な衝立しかなく、佐野も含めたバンドメンバーが同じ空間を共有していることだ。
ふたたびフェアリー氏の証言によれば「モトはヴォーカルなしのベーシック・トラックを録っているときも、わざわざバンドのそばで歌ってくれた」という。おかげでメンバーは佐野の感覚を直に感じ取り、演奏に反映することができた。本作はそういった共同作業の成り立ちも雄弁に伝えてくれる。
好例が、アルバムのなかでも特に重要な位置を占める「新しい航海」の収録風景だろう。録音前、佐野はジョン・レノンの名曲「インスタント・カルマ」のリズムを全身で表現し、自分のイメージをメンバーと共有する。ダビングに頼りすぎない骨太なサウンドは、こういった何気ないやりとりから生まれた。この貴重な映像に触れただけでも、『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』に対する視野は一気に広がるのではないだろうか。
後に佐野元春最大のヒット曲となる「約束の橋」のレコーディング風景も、長年のファンにとってはたまらない映像だ。ミキシングが施される前の生演奏からは、ギターの細やかなフレージングや粒だったベースライン、スケールの大きなドラミングや柔らかいオルガンの響きなどがより鮮やかに立ち上がってくる。佐野が絞り出すように歌うサビの旋律が、最初は収録版とかなり違っているのも新鮮だった。それがテイクを重ねるごとに、また大きく変化していく。間違いなく本ドキュメンタリーのハイライト・シーンと言えるだろう。
ほかにも、今では観るチャンスの少ないミュージック・クリップが多数引用されていたり、知られざるレコーディングの裏話がたくさん披露されているのも見逃せない要素だ。たとえば、スタジオでたまたまジョージ・マーティンと出会った佐野が、少年のような表情で1時間も話し込んでいたエピソードなど、聞いているこちらも笑顔になってしまう。もちろんロンドンで暮らす33歳の若々しい佐野元春に出会えること自体、ファンにとっては嬉しすぎる贈り物と言えるだろう。だが本作の価値はあくまでも、素晴らしい音楽が創りだされる瞬間を、今を生きるリスナーに向けて再構築し伝えているところにある。
構成・編集を手掛けたのは、佐野元春関連の映像を多く手掛けてきた気鋭の映像ディレクターで、初長編監督作『コンプリシティ/優しい共犯』(2020)がトロント・ベルリン・釜山国際映画祭に正式出品された近浦啓。またコリン・フェアリーへのインタビューを担当したのは、やはり佐野と縁の深い著述家で、雑誌『バァフアウト!』の創立者でもある山崎二郎。このような練達の布陣で世に送り出された本作は、リアルなコンサート会場に集えないオーディエンスに向けて贈られた、まぎれもない“佐野元春の最新作品”だった。
最後に、もう1つだけ。映像と同時に表示された視聴者チャットの盛り上がりぶりにも、ぜひ触れておきたい。1回のみの配信とあって、当日は配信前からファンの熱量が凄まじかった。“開演”30分前となって、画面にリラックスした4ビートジャズが流れると、モニタの前に陣取ったファンのコメントがさらなる猛スピードで流れていく。
「楽しみですね〜」「わくわく!」「ドリンク用意しなきゃ」「ナポレオンフィッシュのライブツアーを思い出します!」「今夜はみんな最前列!」。待ちかねたオーディエンスが思い思い“心の声”を呟く光景は、まさにコンサート会場のざわめきが次第に高まっていく雰囲気にも似て、まさにリモート空間における新たなライブ体験を思わせた。筆者はとりわけ、「母親が大ファンで幼少期から聞いていた佐野元春。そんな私も20歳になって、オンラインという形で佐野さんが見れるのがとてもうれしいです!」という若いオーディエンスの書き込みに、静かな感慨を覚えた。
ドキュメンタリー本編の配信中にもチャットは絶え間なく続き、“終映後”はまた視聴者が思い思いの感想を言い合う。その熱がピークに達したのは、リアルタイムで配信を視聴していた佐野本人が、「佐野元春です」「皆さん観てくれてありがとう」と投稿したまさにその瞬間だった。佐野の投稿は続く。
「ロンドンセッションはとても良かったな」
「この撮影から30年経っていますがなぜか古く感じなかった」
「すばらしいミュージシャン、プロデューサーと仕事できて僕はラッキーだ」
「このアルバムを大事に聴いてくれているみなさんもありがとう」
「ずいぶん時間が経ったけれど、こうして作品になってファンのみんなに観てもらえてよかった」
「みなさん、今夜はありがとう、楽しかった」
「また次回会えるのを楽しみにしています」
「じゃ、ちょっとゾイと散歩に行ってきます、また!」
まるでアーティスト本人がアリーナまで下りてきて、オーディエンスの1人ひとりに語りかけている感覚。楽しさの余韻を持続させるこういう体験もまた、リアルタイム配信ならではの新たな可能性と言えるだろう。そしてそれ以上に、リスナーとの関係性をなによりも大切にする佐野元春というミュージシャンの変わらぬ姿勢を物語っているように、筆者には思えた。
TEXT=大谷隆之